2007/11
甘藷先生 青木昆陽君川 治


 毎年10月28日に東京の目黒不動で「甘藷祭り」が行われるほど、青木昆陽は庶民的な蘭学者である。平成10年には青木昆陽生誕300年記念行事が農林水産省や東京都、目黒区教育委員会などの後援で目黒不動にて開催されている。
 江戸で活躍している蘭方医、蘭学者の多くは地方の各藩の出身者又はお抱え藩士である。幕府専属の方はどうかと見ると、医者は漢方医が中心、学者は儒者、朱子学者が主流であり、蘭学者は脇役であった。
 そのような状況の中で、蘭学事始に出てくる桂川甫周は代々幕府奥医師を務めた桂川家4代目で、解体新書翻訳には直接タッチはしていないが、「解体新書」表紙に桂川甫周校閲と出てくる。更に解体新書を将軍に献上してお墨付きを得る斡旋をしたのが甫周の父、3代桂川甫筑である。しかし桂川甫筑、甫周の蘭学者としての実績は未知数である。築地を散策すると「蘭学事始の碑」から築地本願寺横を通って銀座方面に歩いた所に「桂川甫周屋敷跡」と説明板が立っている。
 甘藷先生青木昆陽も幕府専属の蘭学者である。中津藩の藩医で解体新書の翻訳の中心人物であった前野良沢のオランダ語の先生は青木昆陽である。
 青木昆陽は江戸日本橋の魚屋の生れでありながら、学問を志して京都へ遊学して儒学者伊藤東涯の塾「古義堂」で学んだ。彼は漢学を学び中国の書物を読むことが出来た。
 享保の大飢饉を経験した昆陽は、中国の農業書を調べてサツマイモのことを知り、「蕃藷考」という本に纏めた。これが庶民の飢えをしのぐ対策として幕府を動かしてサツマイモを全国に普及させた実績は素晴らしい。サツマイモを試作栽培し、PR印刷物としてサツマイモの効用や栽培方法を解説して配布し、これにより天明の大飢饉(1782〜88)を救ったと言われている。
 青木昆陽は幕府の学者として登用され、甘藷栽培の実績で認められた後、オランダ語について勉強を始めた。昆陽はオランダ語の語学についての本を書いており、蘭学者の魁であるが、医学や洋学を研究した蘭学者ではない。
 この欄でこれまで登場願った蘭学者たちは青木昆陽より後の時代の人達であるが、これら各藩の蘭学者に対抗する幕府の蘭学者は見当たらない。
 幕府は天文方に蕃書和解御用を設けて海外文書の翻訳、蘭書の翻訳や西洋事情の調査を行わせ、後に蕃書調所として独立させ、ここに江戸蘭学の中心人物大槻玄沢を登用した。その後、杉田成卿、箕作阮甫、宇田川玄真、宇田川榕庵など錚々たる蘭学者達が採用されるが、幕府専属は長崎通詞出身者のみである。各藩と比較して、幕府の蘭学振興方針は大丈夫なのかと疑問符が付く。各藩の優秀な藩主たちに比べ幕末の幕府将軍はボンクラが続き、政治の中心は譜代大名出身の老中たちに握られていたのと重ねてみると、自前の蘭学者育成など必要と考えていなかったと思われる。

写真は昆陽顕彰碑。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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